この記事は公開されるだろうか。ちょっと心配だ。
山小屋に泊まるのは恐ろしいものだ。1.狭い、2.布団が湿っていて臭い、3.暑い(大勢の泊り客を詰め込むので冬でも夏でも暑い)、4.周りの人は全員熟睡している(ように見える)、5.明日も早発ちなのに寝つけない。今回も全く寝つけず、屋根裏の低い天井の木目を見ていたら、これがまた怖い。こういうときはどうするか。いつもなら、昔から、眠ろうとするのではなく、『ナルニア国ものがたり』式に、自分が偉大なライオン、アスランの傍にいて、すっかり安心してもたれかかっている、と自己暗示をかけるのだが、今回は、怖いものに立ち向かうつもりで、こないだ見てずっと心の中に澱んでいたラース・フォン・トリアーの映画「Antichrist」について考えることにした。
だいたい今回は麓にいるときから山頂に至るまで「Antichrist」な気分だったのだ。冷たく湿気た森の中を濡れながら歩いて小屋を目指しているときは、小屋に連れて行かれる妻の気分だったし、屋根裏には寝かせられるし、野生動物はいるし、満天の星空は見えるし。
「Antichrist」がどういう映画かというと、子どもを事故で死なせてしまった罪の意識に深く傷ついた妻(シャルロット・ゲンズブール)を救うために、夫婦が深い森の中の小屋に行って、カウンセラーでもある夫(ウィレム・デフォー)がセラピーを試みるが、悪魔にとりつかれた妻によって恐怖の体験をする、というものだ。
ふさぎこんだ妻を、夫は論理的に、優しく、愛情深く、辛抱強く癒そうと努力するが、その努力とは正反対に、妻はどんどん常軌を逸していく。夫は屋根裏部屋で、妻が悪魔信仰にとらわれていたことを知る。そして実は、あれほど愛していた子どもを、彼女が虐待していたことも。夫は悪魔の化身と化した妻と対決を余儀なくされる。果たしてその結末は…?
と書くと拍子抜けするくらいありきたりの物語なのだが、映画は、性器丸写しの性交場面、正視に堪えない妻の狂奔(全裸でのマスターベーション)や暴力(夫に性交を強要していたかと思うと、レンガを夫の下半身に投げ落としてきんたまを潰し、痛みと衝撃で動けなくなった夫のすねに手動ドリルで孔を穿ち、太い鉄棒をその孔に通し、さらに鉄棒に臼のような巨大な石を括り付けて逃げ出せないようにするという、一気呵成の行動)、そして自傷行為の大写し(妻が自らクリトリスをハサミで切り取る)というショッキングな場面の連続で、カンヌ映画祭ではブーイングを浴び、記者会見でも「何考えてこんな映画撮ったんだ?」と詰問されたとか。
という映画の内容を思い出しながら、臭くて狭くて暑くて湿った山小屋で「確かになぜラース・フォン・トリアーはここまで酷い映画を撮らなければならなかったのだろうか」と自問していた。彼の多くの映画では、女性がとことん辱められる。そして痛めつけられた女性の存在によって、男性の卑しさが浮かび上がり、最後に女性が犠牲になることによって、男性が救われる(奇跡の海、イディオッツ)。または犠牲になることによって女性も魂の救いを得ている(ダンサー・イン・ザ・ダーク)。さらに、限界まで辱めを受けた女性が鬼神のように反撃する(王女メディア、ドッグヴィル、マンダレイ)。自分ではフェミニストだと思っていないが、この女性の描き方では、フェミニストどころか人道的に非難を浴びてもしかたないと思うものだ。
「Antichrist」では、夫は妻を貶めたり、傷つけたりしない。それなのに、妻は愛する子どもと夫を痛めつけるのだ。なぜ? いつかはつまびらかにならないが、悪魔に魅入られたから? そうではない。夫が妻のことを何も理解していなかったからだ。島尾敏雄の『死の棘』や、くらもちふさこのマンガ『銀の糸金の針』に登場する、イーグルスの同名曲(Silver Threads and Golden Needles;リンダ・ロンシュタットが歌っていた)を読めば分かる。
I don't want your lonely mansion,
With a tear in every room.
All I want's the love you promised
Beneath the haloed moon.
But you think I should be happy,
With you money and your name,
And hide myself in sorrow
While you play your cheating game.
Silver threads and golden needles
Can not mend this heart of mine.
And I dare not drown my sorrow,
In the warm glow of your wine.
But you think I should be happy,
With you money and your name,
And hide myself in sorrow
While you play your cheating game.
妻のことを思いやっているつもりで、夫は何も理解していなかった。子どもの虐待にも気づかなかった。優しく理性的にセラピーをしながら、それは夫の勝手な認識の下でのセラピーでしかない。絶望と怒りから、妻が悪魔に近寄ることになってしまっても、しかたないのかもしれない。それでも、この物語にも赦しが訪れる。命からがら森の小屋から立ち去る夫の傍を、かつて魔女狩りで死んでいった無数の女性たちが、呪詛や絶望から解放され、手を取り合って平和を取り戻した森を目ざす。その瞬間の映像はやはり感動的だ。いろいろな意味で「奇跡の海」と綺麗な対称形を成している。
赦しへのすさまじい過程を赤裸々に映画にするラース・フォン・トリアーだが、長い間抑うつ状態に悩んでいたそうだ。彼の女性嫌悪は、母親が死の床で初めて、それまで父として接してきた男が実の父親ではないと告白したことや、自身の離婚などとも関係があるのかもしれない。そしてこの映画制作も、恢復のための辛いセラピーのようなものだったらしい。そんな個人的な、しかも不快なものに付き合わせるな! と怒る人がいるのも当然だが、自分はその過程を見たいし、なんだか身近な感じがする。
なんだか身近な感じ。これがラース・フォン・トリアーに対する、自分の正直な感覚だ。永遠の少年、というとかっこいいけれど、子どもというのは残酷だし、汚らしいし、ずるい。彼にインタビューを試みる批評家たちも、彼のことを「naughty boy」=いたずらっ子、と呼んでいる。普通子どもがめんどくさいから大人になるところを、ラース・フォン・トリアーは意思をもってならない。「ブリキの太鼓」のオスカルなんである。子どもだから、どんなに酷いことをしても、許される、受け入れられると思っていて、だから俳優たちを精神錯乱寸前まで追い込み、観客を不快にさせても気にならないのだ。リアルオスカルがどんなに不快か。
ここが、ラース・フォン・トリアーと同じように、かどうかはしらないが、厳しいテーマで知られる映画監督ミヒャエル・ハネケと違うところだろう。ハネケはどこまでも冷静に、人間が暴力に取り込まれる過程や、われわれの本性を、映画にする(ファニー・ゲーム、セブンス・コンチネンツ、ピアニスト、その他その他)。そこに扇情的な描写はほとんどない。だから余計キツい。前の記事でも書いたけれども、上映時間のあいだ、とにかく怖くて偉い学校の先生の授業を、背筋を伸ばして受けているようなものだ。どちらが偉いとかダメとかいうことではない。自分にはラース・フォン・トリアーの子どもっぽさが合う、と思っている。
というわけで、この映画は「奇跡の海」と並ぶ力作だと考えるのだが、それでも納得いかないところはあった。錯乱した妻が一瞬正気を取り戻して、色情狂、夢魔としての自分の象徴であるクリトリスを自ら切り落としてしまうところは、やっぱりおかしいのではないか。妻にそれを否定させちゃいけないでしょ。
眠れなくて外に出たら、3000メートル超の山小屋からは満天の星空が眺められた。映画で瀕死の夫が眺めていた星空より、はるかにすごい星だった。普通だったら美しいとか神秘的とか思うような景色だが、とても怖かった。
「銀の糸金の針」はこの「わずか5センチのロック」に収録されている。備忘備忘(わずか1小節のラララ、の方かと思っていたよ)